読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Twitterサービス停止に備える。

今のうちにアウトプットの手段を確立しておけ。

時間を置いて書いた。

そういうこと

 

タイトルより。

 

物は言いよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

卒業が近い。

 

久しぶりに大学に行って、ドンピシャのタイミングで貼り出されたとりあえずこの春どうにか卒業できる学生一覧を見た。

俺はどうやら無事に、4月から美しき労働の美徳に塗れることができるらしい。

楽しみで楽しみで仕方がないし、その時間が僅かでもすり減ってゆくのが惜しいものだから、このままずっと学生でありたいと思うし、お願いだから学生であらせてくれと、日常で出会うご利益のありそうなもの全てに祈っている。

 

働きたくねえ。

 

本当にこの一言に尽きる。

 

こんな状態だし、そのうえ学科の卒業旅行も済んでしまった。

まだサークルの追い出しコンパも卒業式も残っているのだけれど、これではこの長いようで短かった4年間を振り返ろうという気にもなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4年生になってから、丸くなったね、と言われる。

 

 

 

もちろん身体的にではない。

そもそも体重は高校の部活をやっていた時から1キロたりとも変動していないし、顔に関してはこけるかそれが元に戻るかしかしていない。

 

 

 

反抗期をこじらせた小学校の頃からずっと世間で言う棘のある言葉ばかり発していたらしいし、一時は狙ってそれをすることがかっこいいと思っている絵に描いたような斜に構えたがる中学生をやっていた。

もっとも、その時に発する言葉にしても、少なくとも自分が言われても気にしない範囲あるいは相手にとっても疑いようのない事実だけを選んでいたつもりなのだけれど。

 

高校で磨きがかかって、大学に入ってからもそれは続いた。

オブラートを使うのが上手な人からは、””竹を割ったような””なんて言われ方をよくしていた。

貴様らができることならば””竹を折ったような””とでも形容したかったであろうことは時々感じていましたよごめんね。

 

 

 

 

でも、当時は―正直なことを言うならば今もだが―それについてごめんなんて感情が湧いてくることは微塵もなかった。

 

少なくとも高校時代以降に関しては、そういう言葉選びには理由があったからだ。

 

 

 

 

 

 

一言でまとめるのだとしたら、俺は””確実に伝わること””を狙っていた。

 

 

 

 

ここで言う確実っていうのは、例えば俺が何か注意をしたとして、その改善や、注意するまでに俺が感じていたフラストレーションについても向こうがそれらの存在を把握できることだった。

 

持論だけれど、その影響で実際にどんなことが起こっているのかがはっきりわからないと、さあそれを変えよう、とはいかない。

いや、正確には、それでもなお変えようと思う人間が全てではない。

 

当時で言うならば夏休みの宿題を筆頭に、手を付けないことによる結果が見えていたり実際にそれで苦しんだりしていてもなおそれに手を付けない人間は、管見の限りでさえ佃煮にするほどいる。

そのうえ、もし起こりうる―起こっている―事実を在りのまま伝えなかったのだとしたら、そいつのケツを叩くことになる””リスク””の存在が正確に把握できないことから、手を付けない人間の数は、こちらが伝えなかった事実の分だけ増えていく。

 

そう思うと、自分にとっても相手にとっても、まず何より優先すべきなのは””伝わらない””を避けることであって、多少強めのニュアンスで伝わることはさほど問題ではなかった。

少なくとも自分にとっては。

 

 

 

 

 

 

 

 

それがもっと配慮されるべきタイプの行動だって言うのを、俺はこの4年間のどこでと言うわけでもなく学んだらしい。

 

 

 

 

そいつがそういう行動をしていることにも何かしらの理由がある、っていう当たり前のことを、それまでからは考えられないくらいしっかりと考慮するようになった。

 

これが、丸くなったと言われる所以かと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こう書いてみるとすごく聞こえがいい。

 

だが、実態をもう少しだけ正確に表すと書き方が変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はこの4年間の中で、何かしらの理由がある、という理解の次のステップの中に、””それなら仕方ない””という選択肢を得てしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

この理由、きっかけ、そういったものが何なのかが、本当にわからない。

ただこの4年間で確かに、それも自然と、そうなるものなんだ、そうなるのが自然なんだとばかりに、そうなった。

そういう印象を受けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで例によってクソみたいな文ばかり下痢のように垂れ流しているから、こいつの頭ン中はきっと脳みそじゃなくておトイレよろしく糞便でも詰まってんじゃねえかとでも思われていても文句の言えない知能レベルであることは自覚している。

 

でも、それだけのアホでも、まだ壁に向かって話すような真似をするほどにはボケていないことは確かだ。

 

あんだけ散々、多少荒っぽくなったとしても、伝えよう、と試みていた理由のひとつが、少なくとも俺にとって、そいつらはみんな””壁じゃなかった””ってことなんだろうと最近気付いた。

 

 

 

 

 

 

いいこと悪いことっていうのには明確な定義はないし、あったとしてもそれは自分で作るもので、それは可変で、全ての物事もまた可変だから定義が変わらずともそれが急にその範疇からはみ出てしまうことはあるだろうさ、それくらいはわかっている。

変化自体も決して避けられるものではないということもわかっているつもりだ。

 

だから俺は今の状態を受け入れるしかないし、一方でそれをいいとか悪いとかでは捉えらえて飲み込んだりもできないんだけれど、ただなんとなく、でも確かに、恐怖に近い感情を抱いていることだけが、今自分でわかる。

 

 

 

 

 

使えるエネルギーが減ったのか、ひとつに対して使うエネルギーが増えたのか。

””自分””の範囲が狭まったのか、あるいは明瞭になったのか。

 

さっきも書いたように、原因は、この変化を生んだ変化のようなものが何なのかは、はっきりしていない。

 

ただ、もし俺が相手に可能性を見出さなくなった結果が、相手を壁だと思った結果が生んだものがこの変化なのだとしたら、と考えると、さっきも書いたように俺は恐怖に近い何かを感じるよ、自分に対して。

 

 

 

 

 

これを冷たくなったと捉えるのは少し””違う””のかもしれないけれど、少なくとも今時分ではそう思っている。

 

今後俺はどんどんどんどん冷たくなって、その結果として、死んで、ああ~だから死体って冷たいのね、って昇天しながら納得する画さえ考えるよ。