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今のうちにアウトプットの手段を確立しておけ。

卒論を始末したので書いた。

 

飽きたわけでも忘れていたわけでもないが、これまでで最長のブランクを置いての更新になる。

 

本来このくらいの頻度でも多いくらいなのかもしれないが、いくら思いつくままにだらだらと垂れ流しただけの内容だったとしてもそのために使っている頭もあるはずだと期待しているので、できることならばそれを継続して使うためにも更新はそれなりにしていたい。

更新が目的になったら最後だとは思うのだけれど、それでもさ。

あれだけ得意だった世界史も、センター試験の問題をチラ見しても頭上どころか顔面までクエスチョンマークまみれになる程にはその力が衰えてしまうのだから、これに関しても続けないとあっという間にそうなると思うので。

 

それでもこれくらいのブランクが空いたのは、卒業論文に時間を取られていたからだ。

 

年末に目を背けていた分をここ数日で一気に進めた。

センター試験で大学に入れないので提出こそまだなのだけれど、PDF化も済んで印刷時のずれももはや怖くない、印刷して提出するのを待つだけの状態までこぎつけた。

けっこう頑張ったつもりだったものだから、これ文庫くらいには文字数あるんじゃないか、と思って文庫本の文字数を検索したら12万文字程度とのことだったので、賢者モードよろしく一瞬で現実に戻ってきて己の思い上がりを恥じた。

出版社や作家の方々が数多存在しそうな南西の方を向いて、文字通り土の下に届く勢いで、座ったまま頭を地べたに擦り付けた。

床には、ちょっと大きめのコンビニスイーツくらいの大きさの窪みが残った。

 

それでもなお、綿矢りさの短めの作品くらいには文字数あるんじゃないかと思っている節がある。

当然綿矢さんの作品の文字数は知らない。

ただ、この間初めて読んだけれど、あれだけさっと読めてしまうんだものきっとそれくらいの、なあ、ねえ。

失礼に当たるのは明白なので、この辺でやめておく。

親バカとはこういう感情なのだろうか。

問題は文字数ではなく完成度だと言うのに。

無駄に増えたそれに対して愛着さえ湧いてきているのだからタチが悪い。

 

ここ数日それしかしていなかったものだから取り立てて書くこともない。

働き出したら毎度毎度同じことで悩むのだろうか、あまり考えたくない。

趣味ができなくなるほどに忙しくなったら疲れたりしたら、働き方や勤め先に問題があると最近聞いた。

せっかくならそういうリトマス試験紙的な役割をこいつに持たせられる程度までは延命したいのだが。

これはまだセーフ、更新自体の目的化に半歩ほど突っ込んでいるように見えるが実はそうではない。

 

昼夜も逆転しっぱなしで、空腹も重なって、頭がぼうっとしている。

今回はここらへんで切っておこうか。

そうでもしないと、このアホほどテンポが悪くて読みにくい文章を連ね続けて、さらにはこのクソほどぼやけた頭で第二の綿矢さんを生んでしまいそう。

改めて綿矢さんごめんなさい、と、南西の方を向いて、文字通り土の下に届く勢いで、座ったまま頭を地べたに擦り付けた。

 

床に残っていたちょっと大きめのコンビニスイーツくらいの大きさの窪みに、頭がフィットする。

そういえば引っ越しの時にアパートの点検があるなと思い出し、窪みは見なかったことにしながら、引っ越しの準備について俺は調べ始める。

 

 

 

 

 

帰ってきたので書いた。

 

何気なく肌を触った時のがさがさとした手触りや、朝目が覚めたときの喉の乾燥など、小さい頃には感じていなかった”乾き”が、歳を重ねるにつれてはっきりと身体に現れやすくなっている、最近そう気づいた。

二十歳の時に塩でも撒かれたのかというくらいには、それ以降の俺からの潤いの逃げ方が尋常じゃない。

海に入ったわけでもないし、両国国技館の土俵際で相撲を見たわけでもないので、おそらくこれが老いというやつなのだろう。

関係ないのだけれど、両国国技館の地下で焼き鳥を作っているというのは本当なのだろうか。

あえて調べようとまでは思わないので、二十歳以降俺に憑いている塩の妖精さんがそっと耳元で真実を囁いてくれることを祈ろうとしたのだが、直前に塩を浴びた可能性を否定していたことをすっかり忘れていたので、間違いなくさっきのは老いというやつだ。

Q.E.D.

 

 

 

東京に滞在している間はネカフェでの連泊だったのだが、ただ話しているだけでも感じるほどの乾燥状態だったために濡れマスクをして寝た。

寝相があまりよくないのと、マスクをつけるのが鬱陶しくてあまり好きではないのでこれまで手を出してこなかったが、危機感から装着を決意し、この度克服に至った。

帰りの夜行バスでも大変お世話になり、東京を満喫し過ぎたことによる疲れと共に、快適極まりない夜の旅の演出に一役買ってくれた―と言っても寝ていただけなのだが―。

 

しかし身体に何かを塗ることは未だに嫌いだ。

どうやったって何を使ったって素肌でいるのと感覚が違う。

しかし背に腹は代えられない、長生きをしたいとは思わないがなるべくならよりよいコンディションで生き続けたいので肌への過度なダメージ蓄積は避けたい、今年は頑張って化粧水をじゃぶじゃぶ使って、それに塗れながら生きることにする。

 

 

 

そういうわけで、夜行バスでアパートまで帰ってきた。

東京にいる間、とあるアイドルのライブ―会場が千葉だったのを書いていて思い出したので直前の"東京"を”首都圏”に変更する―に行ってきたのだけれど、その時や翌日の秋葉原観光で買い込んだグッズを部屋に並べ、それらが並んだ様とライブの余韻ににへらにへらと気持ち悪い表情を浮かべながら過ごすのは最高に気持ちがいい。

これと、夜行バスでの睡眠では取り切れなかった疲れを取るための睡眠で、昨日が終わった。

一見すると生産性が皆無のクソみたいな1日を過ごしているような感じさえするかもしれないが、反対に、睡眠とこいつはそれだけで1日を埋められるほどに効用、幸福度の高い行いなのである。

おかげで俺の満足度は青天井だ。

 

しかし、満足度が限界に達するということはありえないので、青天井になった満足度の上には青天井を超えた先の宇宙、漆黒天井となった欲が存在する。

無趣味というか、娯楽についてあまり多くを欲しがらない方であったので、漆黒天井を久々に体感した。

もう他のグッズが欲しくて仕方がないしライブにもまた行きたい、あとライブに行ったアイドルの中の推しが両方けっこうな歳ということもあって今はあわよくば年上の女の人とやんややんやしたい。

 

こうして、化粧水より先に、濃厚な欲に塗れている、そんな2017、年始。

 

 

 

 

無駄にオールをしたので書いた。

 

地元に戻ってきてからそれなりに日を重ねて、もう明日には飛行機でここを発つことになる。

高い飛行機代を支払って行う1週間少々の滞在であったが、思えば、結局帰省中これというほどのことをまるで何もしていなかった。

もしこの有様をワンガリマータイさんが見ていたとしたら、俺の飛行機代についてMOTTAINAIを叫んだかもしれない。

目には目をということで、俺のターンにノーベル賞受賞者の中から素晴らしい理論を拝借して理論のレンタル武装でもできれば、ワンガリマータイさんに一矢報いることができたかもしれない。

しかしこれに関しては自分の学のなさを呪うばかりである。

 

 

 

ブログを書いていても、他のブログを読んでいても、それは感じる。

MOTTAINAIの方ではなくて、学のなさの方。

 

 

 

文章が上手な人は本当に多いし、そういう人達のしたためる文章は、その裏付けとなる教養を確かにその中から感じ取れる場合がほとんどだ。

何を持って上手とするかという議論はあるだろうが、言うまでもなく正解はないので俺がそう感じるものを書くとすると、ほどよい読み応えがあるのにさながら茶漬けのようにさらさらっといけてしまうものや、思わず声に出しそうだしそうしたら多分ノッてきちゃうだろうなというものが挙げられる。

知識、語彙、言い回し、間、ものの見方や捉え方あたりがその構成要素の一部だと思っているのだが、これらの要素はおそらく、さっき挙げたその人の学とか教養にあたるものだ。

 

 

 

知識とか語彙とかはなんていうかもうとりあえず身に付けるしかないし、反対に身に付ければある程度直接的に内容に反映される部分だ。

吸収されるそれらはきっと、読書をはじめとした様々なメディアだとか日常生活を供給源としたものだろう。

まさか吸収されるという前提が誤りで彼らが言葉の創造主であるなんてことは、多分おそらく十中八九いや9割9分はあるまい、この場ではそういうことにしておきたい。

ただ、生きるために必要な最低限の生活動作をしているだけだと、学のある人とない人で触れるもの自体にそこまでの差は付かないんじゃないかと思う。

 

ある人とない人、差が出るのは、単純にその中で入った情報をインプットする力、それを上手に使うべく正確にアウトプットする力。

次点で、そのための判断材料となる眼だとか考えだとかだろう。

まあざっくりまとめるとするならば、少なくともこんな感じになるのではと俺は思っている。

俺には多分どれも備わっていないか、備わっていても十分でない。

それか今挙げた見立てが間違っていて備わっていても役になっていない、だろうか。

3つ目だと話の腰が選手生命を絶たれるレベルに折れてしまうので、1つ目か2つ目だと仮定する。

 

書き手は創造主ではないと先程仮定した以上、引き出しがないことには読み手に、ああ、いい、と思わせる文章を書くのは難しいはずである。

だからこそ、開け閉めしやすい引き出しを作るための力は確実に必要だろう。

いつからだろう、物覚えが悪くなったのは。

歌詞は覚えられないタイプだったが、社会科等の暗記は得意だったのだが。

引き出す方はそれと比べれば比較的死んでいないと言えるはず。

 

で、あとはさっきも挙げたように作る引き出しの見立てをする力なのだけれど、これは言い回しや間と併せてセンスという言葉が当てはまる部分も多分にあると思っている。

ただ、先天的にそれを持ち合わせている人はおそらく限りなく少ないはずなので、知識よろしくインプットしたそれらの蓄積によって培われるのが基本であろう。

そう考えると、インプットする力が文章を書く力に与える影響の大きさがわかる、というか、なんでこんなに文章うまい人いるんだろうなあと思ってとりあえず書き始めて、なんとなく考えながらだらだらと書いてはみたが、なんだこれ正解出たなそりゃそうだ限りなくいろんなものインプットできる人間が強い。

いつだったかの記事に書いた気もするのだが、結局興味を持てる人間が強い。

自己解決、正解出ました。

おもしろい文章を上手に書く人は、きっとその材料や、材料をコンテンツへと変換する頭を、興味を持ってあちこちから拾った情報の中から生成しているのだ。

デデドンッ。

 

 

 

 

なんというか、あたりまえ体操のBGMを流されても何も文句の言えない限りなく浅薄な内容になってしまった、我ながら不完全燃焼にも程がある。

死んでいる頭を起こそうと書き始めた記事であるが、それにしても想定を大きく下回る出来になっている感じは否めない。

しかし、文字数だけは一丁前にそこそこ稼いでしまったので記事にはする。

文字に起こすなんて行為はあくまでも思考の道具、材料であるのだから、俺個人としては内容も内容なので消してもいいかなとも思うのだけれど、如何せん、頭の中でワンガリマータイさんが叫ぶものだから。

 

書きながら今一度考えてみたことに意義があったのだ。

そういうことにしておきたい。